エコロキアの営業車、フィアット500C。
初めてその車に出会ったのは、少し変わった中古車屋さんでのことでした。
経営しているのは某国から来た怪しげな雰囲気を漂わせるオーナー。
車の外装や状態は、確かに“個性”にあふれ、走行距離もメーターは6万kmとなっていましたが巻き戻したので実際には15万km以上という年季の入ったものでした。
それでも、見た目や条件に一目惚れして、総額50万円で手に入れました。確かに安い買い物ではありましたが、どこか不安が残る部分もありました。
その不安を裏切ることなく、車に乗ってみると、ギシギシ、ガタガタと様々な異音が響いてきました。
エンジンの音が気になり、ブレーキの効きも少し不安定。しかし、そんな不安もあっという間に心地よい愛着に変わりました。
おかしなことに、これがまた嫌いじゃないのです。むしろ、どこか可愛らしささえ感じます。オンボロな感じ、予測できない挙動、そのすべてがこの車の“個性”として受け入れられるようになっていました。
営業車として、このフィアット500Cは大活躍しています。
神戸からこの関西圏だけではなく東京、群馬、長野、神奈川、毎月のように出張に行き、購入して1年半ほどですでに3万km以上走行しました。
長距離運転でも、その異音が気になることはありますが、それでも全く不安には感じません。むしろ、道中で車の不調を気にしながらも、それを楽しんでいる自分がいます。
この車が私にとって、単なる移動手段でなく、毎日を特別にしてくれる存在であることを感じる瞬間が何度もありました。
フィアット500Cには、現代の便利な装備も一通り整っています。
ナビ、パワステ、パワーウィンドウ、エアコン…一見、何不自由ない環境です。しかし、こうした便利さがあっても、どこかしら「不完全さ」を感じさせるこの車は、私にとっての“快適な不便さ”を提供してくれています。
例えば、ぎくしゃくするオートマをマニュアル操作でガチャガチャやるとき、エアコンが効くけれど古さ故に少し効きが悪いとき、そのちょっとした「不便さ」が、逆に心地よく感じてしまうのです。
まるで、何かを自分の手で解決していく楽しさがそこにあるかのようです。
私がこれを「楽しむ不便さ」として受け入れているのは、エコロキアの「不便を楽しむ」という哲学に共感しているからです。
現代社会は、便利さが当たり前に存在し、何もかもがスムーズに進むことを求められがちです。
しかし、それが続くと、何か大切なものを忘れてしまうような気がしませんか?
便利さが当たり前になりすぎると、日常の中に小さな喜びを見出すことが難しくなる。
だからこそ、ちょっとした不便さ、手間、ひと手間かかることが、逆に楽しく感じることがあるのです。
私のフィアット500Cもまさにその一例です。
走行距離が長い車であっても、それを気にせずに走り続けることができるのは、その車が持っている「素朴な魅力」と「手をかける楽しさ」に気づけたからこそです。
エンジンがかかるまでに少し時間がかかるかもしれませんし、異音が鳴り響いて不安になることもあります。
しかし、それを受け入れ、それに適応することで感じることのできる一体感。
これこそが、エコロキアの言う「不便を楽しむ」という哲学そのものであり、私の心を豊かにしてくれるものなのです。
もしかしたら、このフィアット500Cには、最新のハイテク車が持っているようなスムーズな運転感覚や、高級感はないかもしれません。
しかし、この車が持つ不完全さ、古さ、そして不便さに対する愛着は、どんな車にも真似できないものだと感じています。
それは、私の毎日の生活の中で、”不便”を楽しく受け入れ、楽しむことの大切さを教えてくれる存在です。
この車との日々は、まるでひとつの冒険のよう。
走行距離が長く、ちょっと古い車であっても、その過程にある「不便を楽しむ」要素が、私にとって何よりの宝物なのです。
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