あの日、全てが変わった
1995年1月17日、あの日を僕は決して忘れることができません。
成人式を迎えたばかりの1月、これからどんな人生が待っているのだろうと希望と不安が交錯していた矢先、阪神淡路大震災が僕たちの街を襲いました。
僕は神戸市東灘区田中町3丁目に住んでおり、震災当時の混乱は言葉に尽くせません。家々が倒壊し、ライフラインが途絶え、人々の顔に漂う絶望感。
あの時、僕の人生も一変しました。
被災して避難しているときはただただ必死だったので30年が経ち、当時の話をする機会もなく記憶が薄れてきてはいますが、ラーメンたろうとマクドナルドを食べたときに感動したことを今でも思い出します。
人生の岐路と新たな道
成人式を迎えたばかりの若者として、これからの就職や未来がどうなるのか全く見通せない状況でした。
そんな中、どういったご縁だったかは忘れてしまいましたが、震災前に大阪で闇金融を営んでいた人物と出会い、その人に可愛がられ、しょっちゅう高級なものを食べさせて頂き、新地やミナミのクラブに連れていかれる…という奇妙な経験をしました。
これからの就職活動に不安を感じていただので、このままこの人の下でアウトローな人生が待っているのかもしれない…そんな将来を思い描きながらも、ケンカもしたことがない、そんな根性が座ったタイプでもない僕は何とか自分の道を切り開こうと模索しました。
そして幸いにも東京の服飾メーカーへの就職が決まり、新たな一歩を踏み出すことができたのです。
地元神戸への帰還と震災の爪痕
その後、1年ほどで地元神戸に戻り、不動産会社に再就職しました。
しかし、その時点でも震災の爪痕は深く残っていました。傾いたアパートやマンション、街中に点在する仮設住宅。その風景は、震災がもたらした悲劇の大きさを物語っていました。復興が進む中でも、多くの人々が抱えた心の傷は簡単には癒えませんでした。
30年の時を経て
30年が経過した今、神戸の街は震災を感じさせないほど見事に復興しました。
当時の混乱を知る者として、この復興を支えてくださったすべての方々に感謝の気持ちでいっぱいです。新たに生まれた街並みやインフラの整備は、僕たちの生活をより快適なものに変えてくれました。
同時に、震災の記憶を語り継ぐことの重要性を日々感じています。
他地域へのエール
それでも、震災を経験した者として、他の地域で災害に見舞われている方々の気持ちは他人事ではありません。
自然災害は避けることのできないものですが、時間が癒してくれる部分もあると信じています。完璧ではないにしても、復興は必ず訪れます。そして、困難を乗り越えた先には新たな希望が待っています。僕は神戸から心を込めて応援しています。
僕とエコロキア
現在、僕は地元神戸でエコロキアという会社を通じて仕事をしています。
僕たちは“不便を楽しむ”というスローガンを掲げ、天然木やレジンテーブルといった自然素材を活かした製品を手がけています。この仕事を通じて、震災を経験した街で新しい価値を生み出せることに感謝しています。
神戸の人々やこの地を愛するすべての方々に寄り添いながら、僕たちはこれからも前を向いて進んでいきたいと思います。
未来へのメッセージ
な思いつくことを書いたのでんだか散らかった文章になってしまいました。
震災から30年という節目を迎え、僕自身が経験した自然災害の脅威と、多くの人たちの努力によって支えられた復興の道のりを振り返るとともに、希望を胸に日々の仕事に取り組むことの大切さを再確認しました。
そして、もしこの記事を読んでくださっている方の中に、災害や困難に直面している方がいれば、ひとつだけお伝えしたいことがあります。
「どんな状況であれ、未来は必ず開けます。」
時間とともに癒される心の傷もあれば、新たに築かれる絆もあります。僕たち一人ひとりができることを積み重ね、共に未来を創っていきましょう。
神戸から皆さんの未来を応援しています。
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